「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式」です
3月25日「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式」の為、硫黄島へ。硫黄島は太平洋戦争 日米最大の激戦地。日米合同慰霊祭は日米和解 友好の象徴です。この小さな島で日米で2万8000人もの将兵が命を落とした。心より追悼の誠を捧げます。平和への誓いを新たにします。私は硫黄島問題懇話会会長。追悼の言葉を語ります。
硫黄島は火山島です。今でも隆起している。ところどころ硫黄が吹き出す。地面が熱を持つ場所では草木も枯れる。そんな厳しい島に地下壕を張り巡らせて圧倒的な物量を誇る米軍を迎え撃った。何度聞いても涙が出る。
「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式」です。72年前の2月から3月 この小さな島で歴史に残る熾烈な戦闘があった。米軍の本土空襲の効率を上げさせないためには、どうしても硫黄島を死守しないといけない。絶望的な状況の中で日本人将兵は勇敢に戦った。父母や妻 愛する人のために。合掌です。
米国硫黄島協会会長 ノーマン・スミス海兵隊中将(退役) 米海兵隊太平洋海兵隊司令官 デイビッド・バーガー中将が献花。米国将兵の戦死者6821人 負傷者2万1865人。米国の戦争史に残る記録的な死傷者数。本当に熾烈な戦いだった。鎮魂。
硫黄島で会った、Jerry Yellin氏。フロリダから日米硫黄島戦没者合同慰霊祭にやって来た。93歳。あの戦争に従軍した。歴史の証人の一人。お孫さんは日米のハーフ。戦後72年。硫黄島の史実 戦争の歴史を語り継がなければならない。特に日本の若者に史実を知って貰いたい。
小笠原村 森下一男村長です。硫黄島は東京都小笠原村の一部。戦前は島民がいた。小学校も神社もあった。戦後は米国の施政下に。そして日本に返還。現在は一般住民はいない。自衛隊が管理している。米軍も訓練に使用。日米安全保障に大切な硫黄島です。
硫黄島の擂鉢山から海岸線を望む。昭和20年2月19日米軍の総攻撃が始まった。海が見えなくなるほどの米国艦船が集結。この海岸から上陸を敢行。迎え撃つのは栗林忠道中将指揮する日本の守備隊。3月26日には日本軍の組織的抵抗が終了したとの記録。日米の多数の犠牲のうえに今日の平和がある。
私が会長を務める硫黄島問題懇話会の最大の使命は、ご遺骨の収容 帰還です。未だ1万1530柱がこの小さな島に眠っている。写真は西側集団埋葬地跡。ここから平成22年〜25年に1264柱を掘り起こした。米軍が日本人将兵の遺体を集めた。大きな穴を掘ってそこに埋めた。戦争の現実。鎮魂。
佐藤正久参議院議員と。擂鉢山山頂で。硫黄島を巡る日米の攻防。米海兵隊がこの山頂に星条旗を掲げる。それを日本守備隊が引き倒す。そんな事が2回3回続いたと聞いた。硫黄島はサイパン、テニアンと日本本土の中間点。硫黄島が米軍戦闘機部隊の拠点になる事 絶対阻止だった。戦略的要衝。
栗林忠道中将率いる硫黄島の日本守備隊は島内に地下壕を張り巡らした。写真はその地下壕の一部。中に入るとその深さ 広がりに驚く。勝機はない。しかし徹底抗戦。本土への空襲を少しでも遅く 非効率したい一心で。圧倒的物量を誇る米軍に ひるまず立ち向かった。そんな歴史があって今がある。